2015年1月6日火曜日

 海のリズム   2003年秋 通信ティンバ-ライン創刊号より 

 私が生まれた頃、海の向こうでボサノヴァという音楽が誕生した。ボサノヴァのリズムを生み出し、「イパネマの娘」などを歌って世界的に有名になったジョアン・ジルベルトが先月初来日し、そのコンサートに行って来た。
 広いステージでたった一人、ボサノヴァの神様がギタ-を弾(はじ)き、歌い始めた。単調だが心地よいリズムが続いていく。まるで穏やかな海の波のようだ。

 目の前に三河湾が広がる海辺の町で育った私は、気持ちの晴れない時や、何か悩み事があったりすると、自転車に乗って海へ行った。堤防に座って、波の音を聴き、きらきら反射する陽の光を眺めていると、心が静かに落ち着いた。嫌なことも不安なことも、消えてなくなるわけではないけれど、まあ、いいか‥そろそろ帰るかなあ‥という気分になったものだ。海がない場所で暮らすなんて、私には想像できなかった…

 群馬にいる時は、頭の中に三河湾の静かな海をイメ-ジしながら生活している。自分の中にある持って生まれたリズム、自然に身に付いたリズムは、それがなくなると自分でなくなる。そのリズムを忘れないようにボサノヴァを聴いているのかもしれない。
 
 些細なことで怒ったり言い争いをする人を見ると、心に海がない人だなあ、と思う。大抵のことは表面で起こる細波(さざなみ)のようなものなのに。心も海と同じように、思っているよりずっと広くて深いものなのだ。

 ギタ-を弾(はじ)くジョアン・ジルベルトの指先をずっと見ている。悲しいこと、幸せなこと、話すように歌っている。なんだか、無邪気な子供が棒きれで砂浜に絵を画いているようだ。
 聴いているうちにだんだん苦しくなってきた。さっきまで気持ち良かったはずなのに。弾き続けられるギタ-のリズムが、波ように、次々とその絵を掻き消していく。楽しい絵も寂しい絵も。この世界に起るすべてのことを… 残るのは砂浜と終りなく打寄せる波。
 
 神様と呼ばれるだけあって、ジョアン・ジルベルトはこの世の無常を教えてくれた。ボサノヴァを聴くのがちょっと怖くなった。